今回は今から約40年前に起こったカンボジアの大虐殺の歴史について、時系列でわかりやすく書いていきます。
この大虐殺は、わずか3年8ヶ月と20日の間に当時の総人口の約1/4(200万人)以上の命を奪ったのですが、なぜこのような大虐殺が起こってしまったのでしょうか?
その時代背景も含めてご紹介します。
なお、プノンペンで実際に拷問や虐殺が行われていた場所を観光することができます。
世界的にも有名な観光名所となってますので、気になる方は以下の記事もご覧ください。

トゥールスレンとキリングフィールドの体験レポートはこちら
カンボジアの歴史を1分でわかりやすく解説
1953年にカンボジア独立でシアヌークがトップに
シアヌーク国王がトップになる。
共産主義を嫌うシアヌークは、ポルポトを敵とみなす。
1961年のベトナム戦争を機にシアヌークは評判を落とす
北ベトナムと秘密協定を結んだことが国民から批判され、人気をなくすシアヌーク。
一方で北ベトナムを支援する中国はポルポトに目をつけたのであった。
1973年にシアヌークがポルポト側につく
追放されていたシアヌークはポルポト側に加入することになります。
そして、遂にポルポト政権が誕生しました。
それこそが「クメールルージュ」なんですね。
1975年にプノンペンから知識人が消える
ポルポトが掲げた「原始共産主義社会」とは、簡単に言うと「全員、農民になって原始時代に戻ろう」ということです。
そこで、反対勢力になり得る知識人を容赦無く虐殺していったのでした。
当時はメガネを掛けていただけで、知識人だと見なされ殺されたんですね。
ただし、虐殺にも理由がいります。
そこで、知識人たちを拷問にかけて自らの口で「国家反逆罪」を自白させて、合法的に処刑していたのです。
その跡地がトゥールスレンやキリングフィールドなんですね。
1978年ベトナム軍の侵攻によりクメールルージュ失墜
10万のベトナム軍に対し、3万のクメールルージュはなすすべなく敗れて失墜しました。
このような出来事が数十年前にあったばかりなんですね。
特に知識人が大量虐殺されたのは文化的な面からみてもカンボジアにとって大きな痛手となりました。
しかし、その歴史を乗り越えてカンボジアはたくましく経済成長を続けています。

カンボジアに伝統文化が根付いてないのも、この影響が大きく関係してそうです。
カンボジアの歴史を詳しく解説(独立から内戦終了まで)
動画で詳しく知りたい方はこちらが参考になります。
12:30~から詳しく解説されてるので是非、動画もあわせてご覧ください。
【1946年〜】インドシナ戦争勃発

インドシナ戦争勃発
1946年当時、フランスの支配から独立するためベトナムの独立同盟軍が戦争を起こしました。
それは次第に周辺国のカンボジアやラオスにも飛び火し、ベトナム独立同盟に共鳴する反政府軍がカンボジアを制圧しました。

【1953年】カンボジア独立

シアヌーク国王の肖像画が描かれているお札
インドシナ戦争終結(ベトナムが共産主義国家として独立)をきっかけに、カンボジアはベトナム革命軍の占領から解放されました。
この頃カンボジアのトップについたのが、シアヌーク国王でした。
共産主義を嫌うシアヌークは、同じ独立のために戦ったポル・ポト率いる共産ゲリラ軍を敵とみなしたんですね。

今は「第二のマカオ」とも呼ばれ、カジノ開発が進んでるそうです。
【1955年】シアヌーク政権一党支配体制を確率

シアヌーク前国王
1955年には、シアヌーク政権が一党支配体制を確立し、共産主義を弾圧しました。
その頃、共産主義を支持するポルポトは当局に追われ、地下に身を潜めましたがその後12年間、水面下で兵士たちに共産主義思想を広め続けてました。
【1961年】ベトナム戦争勃発

ベトナム戦争勃発
フランス撤退後、アジアにおける共産主義の布教を恐れたアメリカがベトナムに軍事介入し、南ベトナムを支援しました。
シアヌークは北ベトナム(共産主義)の勝利を予見し、勢力を増した共産主義がカンボジアの領土を侵すことを恐れたのです。
そこでシアヌークは、「カンボジア国内における北ベトナム軍の活動を許すかわりにカンボジアには手を出さない」ことを条件に、北ベトナムと秘密協定を結んだんですね。
しかし、ベトナム軍の介入を許可したこの政策がカンボジア国民から批判され、シアヌークの人気は急落しました。
一方、北ベトナムを支援する中国は共産主義を支持するポル・ポトたちを利用しようと考えました。
無名だったポル・ポトたちは突如、中国の巨大な後ろ盾を受けることになったのです。

シアヌークの人気が落ちて、ポルポトに白羽の矢が立ったんだね。
【1970年3月】ロン・ノル首相によるクーデター勃発

ロン・ノル首相
アメリカの後ろ盾を受けたロン・ノル首相がクーデターを起こし、シアヌークを元首の座から引きずり下ろしました。
しかし、このロン・ノル首相は政治的な才覚がなく、反政府ゲリラによる動きが活発になっていきました。
【1973年】シアヌークがポル・ポト勢力に加わる

若かりし頃のポルポト
追放されたシアヌークが敵対していたポル・ポト勢力に加わった結果、シアヌークを支持していた多くの農民も反政府活動に参加するようになりました。
これによってクメール・ルージュの勢力が一気に飛躍したんですね。
ちなみに、赤(ルージュ)は共産主義を表しています。

【1973年】ポル・ポト政権誕生へ

ポルポト
アメリカがベトナム戦争に敗れ、完全撤退と同時に、アメリカの後ろ盾が無くなったカンボジアのロン・ノル政権も崩壊しました。
そこで新しく立ち上がった政権がポルポト率いる『クメール・ルージュ』でした。
【1975年】クメール・ルージュがプノンペンへ侵攻

トゥール・スレンからキリング・フィールドに連れていかれている様子
1975年4月17日、当時のトップであったポルポト率いる軍隊『クメール・ルージュ』がプノンペン入りしました。
当時プノンペンに住んでいた人々はもれなく全員強制退去を命じられ、人々は休みも食事もロクに与えられず、田舎で働かされ続けました。
そしてある日、「国の再興を手伝って欲しい」という名目で、医者や教師、学生だった知識人が呼び寄せられました。
長い農作業から解放されると喜んでいた彼らに待っていたのは長期間に及ぶ拷問と処刑でした。
多くの人々が『国家反逆罪』という無実の罪を自白させられ、処刑されたのです。
ポル・ポト政権による大虐殺は3年8ヶ月と20日続きました。

それが許されていたって、ちょっと考えられない…
ポルポト政権が目指したもの=”原始共産主義社会”
原始共産主義社会とは『全てを無くし、原始時代のように学校や病院、お金も何も無い環境を作り、国民が全て農民となることで自給自足の社会を作ろう』というものです。
原始共産主義を目指すポルポト政権にとって、既に自分の資本を形成し、反対勢力になりそうな知識人たちが邪魔でした。

クメール・ルージュ少年兵
ポルポト政権時代の重要な役職についた人たちは、13歳以下の教育を受けていない子供達がほとんどだったと言います。
看守や、兵士、医師も全て子供です。
なぜなら、知識が無いために原始共産主義を理解させ、洗脳しやすかったからです。
以下、ポルポトの言葉引用
我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。
たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。

【1977年】クメール・ルージュがベトナム軍を攻撃
兼ねてより小競り合いの続いていたベトナムに軍事攻撃をしかけました。
軍事力では圧倒的に不利だったのですが、ポル・ポトは中国の後ろ盾を信用していました。
【1978年12月】ベトナム軍がプノンペン侵攻
10万人のベトナム軍に対し、たった3万人で挑んだクメール・ルージュ軍は失墜し、プノンペンを逃げ出しました。
こうしてポル・ポトによる恐怖政治は幕を閉じたのです。
その後の1997年にポル・ポトは拘束され終身刑を言い渡されましたが、翌年に心臓発作によって謎の死を遂げました。

1979年の日本は「ドラえもん」が放送開始した頃だって。
そう考えると、なんか怖いよね。
カンボジアの歴史を学べる観光スポット
今でも、犠牲者の痛々しい人骨や衣服、当時の殺害場所や凶器などを見学することができます。
同じ過ちを繰り返さないために、『負の遺産』は存在します。
カンボジアに来た際は、ぜひ立ち寄ってみてください。

トゥール・スレン刑務所
トゥール・スレン刑務所はもともと笑顔のあふれる高校でした。
しかし、ポル・ポト政権時の約3年間、ここは拷問部屋として利用されていました。

トゥール・スレン刑務所内部の様子
ここに運び込まれた知識人たちは日々、水責めや宙吊り、電気ショックや鞭打ちなどの拷問を受け自白を強要されました。
また、生きたまま人体解剖をされた人や4パックに及ぶ採血を強制され息絶えた方もいるといいます。

トゥール・スレン内部の様子
トゥール・スレンに関する記事はこちらから
≫【2018年最新】トゥール・スレンの歩き方【行き方・入場料・時間】
キリングフィールド
長い拷問を受けた人々が最終的に運ばれ、連れてこられた場所がここ「キリングフィールド」です。
キリングフィールドは国内に300ヶ所以上あり、各地で大量虐殺が行われていました。

キリングフィールド内部の様子
大人は斧やハンマーなどで殴り殺され、幼児は木に頭を打ち付けられ虐殺されました。
銃の玉には限りがあるからです。

キリングフィールド内にあるキリングツリー
園内には粛清のための音楽を大音量で流し、泣き叫ぶ人の声を掻き消していたと言います。
その音楽は、音声ガイダンスで聞くことが可能です。

キリングフィールド内にある慰霊塔
キリング・フィールドに入ってすぐのとこの慰霊塔です。
犠牲者の人骨と衣服が祀られています。
キリングフィールドに関する記事はこちらから
≫【2018年最新】キリング・フィールドの歩き方【行き方・入場料・映画】
カンボジアの現在「フン・セン政権による独裁政権」
現在のカンボジアはフン・セン首相率いる「カンボジア人民党」の独裁政権下にあります。
その問題が浮き彫りになったのは、2018年7月に行われた5年ぶりの総選挙でした。
この総選挙で起こったこと
・野党党首の投獄
・異議を唱えるメディアの解体
その結果、125議席すべてがカンボジア人民党のものになりました。
これは歴史ではなく、今実際起こっている問題です。
東洋経済新聞の記事にも詳しく取り上げられています。
日本人が知らないカンボジア「独裁化」の現実(東洋経済新聞 GARDEN)
以下、カンボジアのこの問題について2013年から取材を続けている高橋さんの言葉です。
(なぜ弾圧の事実が、世界中に伝わっていなかったのかという質問を受けて)
カンボジアにはアンコール遺跡群だったり、世界中の観光客の方々が訪れる魅力的な場所がたくさんあります。そのような場所をただ訪問して、例えば1週間、10日間、その地だけを見て帰っていけば、この国で起きてる社会問題の深層を知ることなく、表層的な部分だけを捉えて帰っていくことができる国がカンボジアだと思います。だからその、表面的な魅力の背景にその深刻な社会問題が隠されている、そういう時代が長く続いた結果、この弾圧の事実がなかなか世界の人々の目に届いてなかったのではないかと、長く暮らしながら考えることが多かったです。
これからカンボジアを観光される予定の皆さんへ
これからトゥール・スレンやキリングフィールドなどを訪れる予定の皆さんにはこういったカンボジアの背景も含めて、観光して欲しいです。
これは歴史ではなく、現在進行形で起こっている問題です。
カンボジアの表層的な魅力だけでなく、深層的な部分も知る人が1人でも多く増えることを願います。

日本語の音声ガイドがオプションであるから、それを聞いて周るのがオススメです!
実際に、そこでどんなことが行われていたのか?知ってるのと知らないのとでは、カンボジアの理解も全く違いますからね。
是非、プノンペンに訪れた際は行ってみてはいかがでしょうか?